聖書は次の様に神様の御前でへりくだりなさいと教えています。
ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(1ペトロの手紙5:6-7)
へりくだるとは自分の罪、弱さ、欠点を認め神に委ねるという事です。実は自分の罪、弱さ、欠点を認める事はたやすいことではありません。虚勢をはって自分には何の弱みはないと多くの人はいいます。しかし、実際は人間誰でも弱み、欠点は持っています。悪いこと、つまり聖書でいう罪も犯します。それをないかのようにする事自体、自分を偽っていることです。実は自分の弱み、欠点、罪を認める事は勇気がいることです。本当はこのような人が強いのです。 また、聖書は自分を捨て日々十字架を負いなさいと教えています。次のイエス・キリストのことばを読んでみましょう。
9:23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。9:25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。(ルカの福音書9:23-25)
自分を捨てるとは、自我を捨てるということです。十字架を負うとは自分自身に対しての死を意味しています。今まで自分中心に生きてきたかもしれませんが、それを変えて神様の教えに従って生きていくと言う姿勢です。このような人は果たして弱い人でしょうか。自分の欲を捨て他の人を思いやれる人は弱い人でしょうか。私はそうは思いません。そのような人こそ勇気ある強い人です。しかし、その強さは自分自身が持っているものではありません。
「なぜなら私が弱いときにこそ、強いからです。」(2コリントの手紙12:10)
これはどのような意味なのでしょうか。弱いときこそ強いというようなことはあるのでしょうか。ちょっと矛盾したことばですね。ところがこれは真実なのです。自分が弱いと認めて初めて神様の強さが宿るのです。自分の欠点や弱さを認めることは非常に勇気がいることです。なぜならそこから自分が無防備になるからです。プライドも傷つきます。この世の中はよく弱肉強食の世界だと言われますが、このような世界では自分の弱さや欠点を見せることは自分自身に対して損になるばかりか、敵がのさばる絶好の機会を与えてしまいます。ところが神様と私たちの関係はそのようなものではありません。自分が弱いもの、罪あるものだと認め初めて神様が働いてくださる信頼関係にあるのです。自分が強がって何の助けも要らないと言っている人たちを神様は助けることは出来るでしょうか。答えは簡単です。出来ません。
「神様の恵みを求めなさい。与えられるから。」と私たちに招きの言葉をかけて下さっています。 神様を信頼している人は次の様なことばを堂々と言えるのです。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピの手紙4:13)このような人は弱いのでしょうか。神様を信じることは弱さの表れでしょうか。いや答えはまったくの逆です。神様を信じる人こそ強い人です。なぜなら神様がその人の内で働いてくださるからです。
最終更新日: 2009年2月13日(金) 04:44 JST|2,988 閲覧件数
コメントは投稿者の責任においてなされるものであり、サイト管理者は責任を負いません。