聖戦

戦争をどのように解釈すべきでしょうか。
旧約聖書の戦争はどんな意味があるのでしょうか。
イエス・キリストの教え、敵を愛しなさいと矛盾してないでしょうか。
 

聖書と戦争

奇しくも中東ではイスラム原理意主義者たちが「ジハード」と言われる「聖戦」を行っています。ある非常に極端なクリスチャングループは、キリスト教徒も武力行使をしてまで悪を倒すべきだと主張します。古くは、中世ヨーロッパの十字軍の遠征があります。

申命記20章1節−4節、10節−18節を読んでみましょう。 ここで神は「その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。・・・息のある者をひとりも生かしておいてはならない」と命じています。このような聖句をどのように解釈して適応したらいいのでしょうか。このような難しい聖句は無視するのでしょうか。旧約の神は新約の神とは違うと解釈するのでしょうか。それとも、神のみとことばとして受け入れるのでしょうか。その根拠はどこにあるのでしょうか。  
申命記9章1節−5節、創世記15章16節を読んでみましょう。 これらの国々は、その罪ゆえに裁かれたのです。問題は、私たちが、物理的な命は、霊的な命「どのように生きるか」よりも大事だと考えることにあるのではないでしょうか。たとえば金槌。金槌は釘を打つのに便利で重宝するものです。しかし、その使い方を間違えれば大変な凶器になります。そのような凶器を使い方を知らない人に与えるでしょうか。人間の命も同様で、使い方を知らない人には何らかの形で神の裁きがあるという事です。

すべて旧約聖書で起きたことは、神の支配の中にあり主イエス・キリストの計画が成就するために神の御心のうちに起きたのです。では、この神の命令から習うことはないのでしょうか。申命記20章3節ー4節にあります。これは主の戦いなのです。ヨシュア1章6節、2テモテ2章1節−4節、を読んでみましょう。「主にあって強くありなさい」というメッセージは今も変わりません。主が戦ってくださっている事実は今も変わらないわけです。 しかし、新しい契約下では、戦いの性質が違うのです。 ヘブル12章18節−24節、エペソ6章10節ー18節を読んでみましょう。 私たちの戦いは物質的な戦いではありません。むしろ霊的な戦いです。私たちが求めているのは物質的な王国ではなく、霊的な王国です。神の支配がある王国です。