旧約聖書入門
★旧約聖書の読み始め★旧約聖書の読み方の変革
★旧約聖書の権威
★旧約聖書と新約聖書の関係
旧約聖書の正典
★旧約聖書の正典★ヘブル語聖書の正典
★カトリックとプロテスタントの正典
★宗派、教派による違った正典の種類の表
旧約聖書の教え
★神の契約★創造主なる神の聖なる愛
★創造主なる神と偶像礼拝
★真実の神と日本人の偶像礼拝
難しい聖句
★旧約聖書の難しい聖句の紹介★聖書と戦争
★詩篇137
★敵を愛せよ
旧約聖書の読み方の変革
新しい契約下にあるクリスチャンにとって旧約聖書はどのような位置づけを持っているのか、どれほど重要なのか、旧約聖書をどのように読んだらいいのか、神の御心にかなった読み方はどんなか、神学的に正しい読み方はあるのかを考えてみましょう。
2世紀初頭、120年頃、マルキオーンという異端のクリスチャン信者がいました。彼は、2元論的考え方を持っていました。2元論とは、世界を物質的なものと霊的なものとに分ける考え方です。物質的なものは悪であり、霊的なものは善であるという考え方です。マルキオーンはこの考え方を聖書に示されている神に適応して考えたのです。旧約聖書に示されている神は、物質的な神であり裁きの神であると説いたのです。物質的な創造は悪であり、その物質的なものを創造した旧約聖書の神は完全な神ではない。むしろ、劣っている神であると説いたのです。一方、旧約聖書に示されている神は、霊的な神であり愛なる神であると説いたのです。この神は、旧約聖書の神とは異なる神であり、完全な神の御心を示したと説いたのです。こうなると、必然的に旧約聖書と新約聖書を完全に切り離して考えるようになります。つまり、旧約聖書は必要ない、むしろ愛のない神、邪悪な物を造った神は必要内という事になり、マルキオーンに信望した信者たちにとって旧約聖書は完全に無用の産物であったのです。マルキオーンは異端として扱われましたが、その当時の周りのクリスチャンたちが、旧約聖書をどのように読むか理解していたわけではありませんでした。一般的に、旧約聖書にはクリスチャンと相反する価値観や命令があることに私たちは気づかされます。戦争があったり、一夫多妻制があったりです。ゆえにクリスチャンは旧約聖書の取り扱いに悩むわけです。
一つの読み方として、新約聖書から旧約聖書を読む方法があります。2−3世紀の神学者、オーリゲネースは、比喩的な解釈をしています。たとえば、出エジプト記17章8節−16節の解釈が彼の典型的な解釈です。オーリゲネースは、モーセが手を上げている姿は十字架を象徴していると解釈しました。またもう一つ、新約聖書から旧約を読む方法として、旧約聖書はすべてキリストについて預言している(ヨハネ5章39節)と考えるのです。
たとえば、創世記1章3節の「光よあれ」は、ヨハネ1章1節−5節で「このいのちは人の光であった。光はやみの中でに輝いている」、この聖句を預言していると解釈するのです。
マルチン・ルターは創世記32章22節−32節でヤコブが格闘した人をイエス・キリストだと解釈しています。この解釈は、多くの注解書に今だ書かれていますので、ルターの影響力は大きいのには正直、驚かされます。
もう一つの典型的な読み方は、新約聖書に照らし合わせて、その基準に合ってるものだけを読み、学ぶ方法です。他の聖句はまったく読まないか、読んでもクリスチャンには適応できないので無関心になるようになります。結果として「旧約聖書は新約聖書より下に位置づけられ、あまり読まなくても良い」と判断されるようです。
では私たちは、どのように旧約聖書を読んだらいいのでしょうか。神の御心にかなった読み方はどんなでしょうか。それを考えてみましょう。