キリスト教の分裂

イエス・キリストの一致の祈りとは何でしょうか。
クリスチャンの一致は何を意味するのでしょうか。
キリスト教の分裂はなぜ起きてしまったのでしょうか。
カトリックとプロテスタントの違いは何でしょうか。

クリスチャンの一致

イエス・キリストの祈りとクリスチャンの一致

キリスト教の分裂

なぜキリスト教は分裂したのか?

カトリックとプロテスタントから

最初、教会はひとつのはずでした。しかし、2−3世紀頃からカトリックという権威的な教派が生まれ、キリスト教の異端と言われる人たちも出てきました。宗教改革によって多くのキリスト教の指導者たちは、カトリック教会によって生まれた弊害を正そうとし、聖書的な教会へと改革をしようとしたのです。(詳しくは、カトリックとプロテスタントの違いをお読みください。)

しかし、宗教改革が終わると、人々はこのような考えから離れてしまい、いつしか自分達も人間的な決まりと伝統を作り、信者たちを縛り付けてしまったのです。結果的に宗教改革から多くの教派が生まれてしまいました。確かに神は、宗教改革のリーダーたちを導き動かしたと思われます。しかし、そのリーダーたちが死んでしまった後、その良い概念は失われてしまったのです。悪魔は、人間を権威、権力、名声という誘惑に駆り立て「分派分裂を起こせ」と言う罠をいつの時もはっています。クリスチャンはこの様な罠にはまるべきではありません。

「この教会はカトリックですか。それともプロテスタントですか。」と聞かれる事がよくあります。実際、答えに困ってしまいます。カトリックでもないプロテスタントでもないクリスチャンになりたいと思います。ある神学者の人間の名前をとったり、ある一部の有名な教理からとったり、または教派の創設者の信仰からとったり、教派には様々の名前がありますが、人の教えや伝統をあたかも聖書の教えであるかのように扱った結果がキリスト教の分派分裂になったのです。本来、クリスチャンが先生と呼べるのはイエス・キリストだけです。イエス自身が次の様に言っています。

23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。……23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。 23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:8-12)

ここでイエスが言っていることは非常に解りやすく、言っているままに従えばいいのです。クリスチャンの間に上下関係はありません。それにも関わらず、上下関係を作り出したのは人間たちなのです。多くの教会では、教会のために奉仕している方を牧師先生と呼んでいます。また、ある教会では、祭司と呼ばれる人々の中には数限りない序列関係があるようです。このような事は、神のみこころではありません。

教派と人間の愚かさ

次の聖句で、パウロは「信者の中のりっぱな人につく」ような行いの愚かさを説いています。

実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、1:12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。(1コリント1:11−13)

「誰それにつく」と言っていること自体、聖書的に言いますとおかしな事です。「キリストにつく」と言っている人の中には、もしかしたら悪い意味でのプライドを持って言っている人もいるかもしれません。この様な争いこそが、現在のキリスト教の分派、分裂の元凶ですが、実際、根はもっと深いようです。その根源について聖書から学んでみましょう。

教派の根源

それではなぜ教派が出来てしまったのでしょうか。パウロは教派が出来る事を次の聖句で預言しています。

神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。 4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:1−4)

聖書の真理から離れ、自分勝手に、または自分の都合の良いように聖書を解釈して、人々が集まる時代がくると言っています。このような時代はすでに来ましたし、人間たちが悔い改めない限り続くでしょう。ですから、結論を言いますと、現在の教派は人間の罪ゆえに誕生したのです。パウロがエペソの教会の長老たちに別れを告げる時に次の様なことばを言っています。

私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。(使徒行伝20:29−30)

上記の聖句は、クリスチャンの中から、間違った教えを語るものが出てくると言うのです。外部から間違った教えが入ってくるのではありません。教会の内部から分裂分派が起こるのです。初期の教会からこのような事は起きていました。そして今、何千というクリスチャンと称する異なったグループが、異なった信仰を持っています。これは明らかに神様のみこころではありません。

教派のリーダーと真のリーダー

教派の現実について考えてみましょう。教派とは人間のリーダーについて行く事から起こります。ひとりの人間をあたかも神のように扱う事から始まります。ある宗教的なリーダーの名前、またはその信仰の根元になぞらえて、教派の名前がつけられる例が多くみられます。ほとんどの場合、その宗教的なリーダーは、教派をつくるつもりなどなかったのですが、そのリーダーが死んだ後にリーダーの弟子たちが教派を起こしたのです。死んだリーダーはもういません。しかし、そのリーダーの信仰を、あたかも聖書と同じように大事にして長い年月の間にその教派の伝統が出来て、変えられない信仰になってしまいます。その信仰を聖書が教える信仰として、その教会の信仰の案内として書かれています。信仰のリーダーは死んでしまいますが、イエスは今でも生きています。聖書は次の様に証言しています。


イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12:2)

信仰のリーダーは、主イエス・キリストとするべきです。これが聖書が教える信仰です。
上記の聖句が示すように、イエス・キリストが信仰の創始者なのです。キリスト教の歴史の中には、多くのすばらしいクリスチャンがいます。その方々はたくさんの本を書いたり、有名な話しを残しました。人々を啓蒙し、励ましたすばらしいリーダーであったでしょう。しかし、彼らは人間に過ぎません。イエス・キリストは神の子であり、私たちの罪のために十字架に付けられた唯一の救い主です。その方は今、神の御座に着かれているのです。その方から目を離さずにいなさい、とこの聖句は言っています。

教派が起きた後に、長い年月を経て、教派の伝統というものが自然と出来てきます。その伝統はもう変える事が出来ない、その教派の文化の一部になってしまいます。人間の伝統の上に建っている教派の教会と、聖書が教えている教会は違います。教派は人間の考えが根元にありますが、聖書が教える教会は神のみこころが根元にあります。
それでは正しい教派はあるのでしょうか。既に説明しましたが、教派は人間の罪ゆえの産物にすぎません。そうしますと結論は、「正しい教派などありえない」と言う事です。どんな教派でも良い事を行なっています。神様の教えに部分的に従っています。しかし、その良い行いがその教派を良しとする事にはなりません。この分派分裂の原因は、私たち人間の方にあります。

では、現実の多くの教派の教会が、どんな形で主である神と関わっているのでしょうか。当然、そこには神の支配があります。恵み深い慈悲ある神は、人間の罪ゆえに生まれた教派にいる人たちでさえ祝してくださいます。神はクリスチャンの分派分裂を見て悲しんでおられます。イエスが祈ったようには、クリスチャンの一致はありません。それでも神はクリスチャンを祝しておられるのです。そこには神の支配と権威があるからです。分派分裂を起こし、そのような教会にいるクリスチャンを祝するのも神ですが、そのような人たちを裁くのも神です。