イエス・キリストは耳が聞こえない人を聞こえるようにした。目が見えない人の目を開けさせた。話せない人の口を開き話せるようにした。このように肉体的に癒され人々は喜んだのだが、本当の喜びは心が癒されるところにあるのではないか。見えると思っても見えないのが人間。心の目が開かれていないから真理が見えない。心の耳が開かれていないから神の御言葉も耳に入ってこない。イエス・キリストとユダヤ人教師たちの会話は興味深い。ヨハネ9章35節ー41節を読んでみよう。
イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
人間の自我は、「見える、知っている」と主張する。しかし、実際は私たちには自分の視点からしか見えないのである。それもごく自己中心的な視点から見るからゆがんでいるのも気がつかない。主の前で「見えません」と告白するのがまず第一歩、そして神の教えに聞き入るのだ。少しだが目が開かれ見えてくる。自分の力や知恵によってではなく、神の力と知恵によって。
祈り
主なる神よ。あなたは天地万物を創造された全知全能の神です。すべてを支配しておられる神です。私は人間に過ぎません。愚かな罪人です。どうか私の目を開きを真理を理解させてください。この愚かな卑しい罪人の心の耳を開いてください。主、イエス・キリストの名によって。アーメン。